2017年2月5日日曜日

バンドリ3話に感動した,という話

ネット上ではけっこう散々な評判を聞くバンドリ3話だが,私はここまでのバンドリの物語の進行と戸山香澄の関係には好感を持っている.
現実ではありえない物語を進行させようとした時,その世界観やキャラクターたちのリアリティのレベルが現実と同じであるなら,その物語を実現することは出来ないので,必ずどこかのリアリティレベルを変えなければならない.
例えば,バンドリで進行させたい物語が,ギターを引いたことのない女子高生がバンドを組んでライブハウスでライブをするというものだとして,さらにそのバンドのメンバーが今まで友達だった人たちでは無いとしたら,現実世界では実現するのはかなり困難で,どこかで無理をしないと到底実現できるものではない.
その無理,リアリティレベルの変更を,人間の技能の習得に関して変更し,ある日起きたらギターが弾けるようになることにしたり,確立に関するリアリティレベルを変えて,たまたま密かにバンドをやりたいと思っていた人が集まっていたことにしたり,まあ色んな方法が考えられる.
バンドリでは,周囲のキャラクターや世界観のリアリティレベルを極力落とさずに(もちろん現実と同等では無いが),主人公である戸山香澄がどう行動したら,その不可能にも思える物語を進行させることが出来るのか,という観点から彼女のキャラクターが作られているように思った.そして戸山香澄の行動がバンドリの物語を進行させることが出来るのかという点において,かなりの説得力があるのではないかと思った.
逆境ともとれる物語の開始条件から主人公である戸山香澄が行動することによって物語を進行させる,というスタイルには,周りの環境の変化や周囲の人物たちによって物語が進行していく作品や,発生したアクシデントに対応し原状復帰を目指す形の作品に対し,これぞ主人公と物語のあるべき関係なのではないかと感じたりする.

バンドリ3話を見た時,俺は感動した.
人は人生という物語の作者として,周囲の環境や他の登場人物の設定を変えることはできず,ただ主人公である自分自身が行動することしか出来ない.
戸山香澄自身が行動することで物語が進行していくのを見て,俺は戸山香澄に憧れ,勇気づけられた.

ラブライブも一応主人公が周りを巻き込んでいくタイプの話だったが,目的のためには何でもやる戸山香澄と,そしてそれを過度にギャグシーンとして消化しないバンドリに,感動した.

戸山香澄がステージに出ていくシーンで俺も苦しくなって,一度テレビを消した.でもその苦しみは,嫌な思い出ではあるが,乗り越えたい悔しいものでも有る.